年が明けてまもなく雪が降った。雪は毎年降っているが積雪は何年ぶりだろう。
予報通り昼前から降り始めた雪は、予報を外れ夕方を過ぎても降り続け、夕方子供たちが公園でつくる雪だるまには土が混じっていなかった。(近年の雪だるまは土だらけで汚いものだった)
もう雪は降らないものと思っていた。温暖化のもと冬でも暖かい日が増え、日差しは冬らしくもなくなり、この辺りでは雪は降ってもつもらないと決めていた。
未曾有の時代に私たちは生きている。何もかも、もはやどうしようもない、、とある意味さじを投げて生きている、多分、私は。
さじを投げてあふれる情報に身をゆだねて生きている、仕方なく。
しかしこんな時代だからこそ、年を取った固定観念に生きてしまう怖ろしさを思う。こすれば砕ける古いスポンジのような感受性で生きてしまう怖さを思う。
予報では今回の雪について大げさなものはなかった。しかし午前中からやたら寒く妙に静かで、降る直前さらに強い冷気のカーテンが上空から降りてきて体をぎゅっと締めつけた。
それはかつて感じたことのあるあの感覚。大雪のサイン。
しかし頭の中で雪は降り積もらない。情報もそう言っている。積もりゆく雪を見ても頭が拒絶する。
頭が硬い。
自分の意と違う現実を受け入れることが難しくなっている。
降り積もる雪を見て、固定観念の醜いかさぶたを純白無垢の雪が覆い隠していくことに妙な安堵感を覚える。
年齢を重ね変わっていく自分の体、取り巻く人々、変わらない心、恐ろしく変貌していく世界と現実。
もう私たちの考え方、やり方は正しくないのか、役に立たないのか、身を粉にするだけでは誰も幸せにできないのか。私たちは世界を動かす何かから離れ続けるだけなのか。
いや、年を重ね経験を積み重ね、知識を得たつもりになって甘えていないか、勘違いしていないか。
そのままで順応していた、役に立っていたと勘違いしていないか。
昨日の自分がしたこと、考え方は正しいことだと勘違いしていないか。だからそのまま、今日も明日も、目を閉じて、固まって・・・。
解釈は無数にある。現実との組み合わせも。正解などない。
おそらく、とどまっていることに人は寄り添うことができない。
流れ続けることに意味がある、多分。
年を重ねてからも成長し続けることができなければ、前も見えぬ猛吹雪の中深い雪原でもがき続ける、あるいは立ち尽くすだけの人生になってしまうのではないか。
そんな時代に私たちは生きている。
歳をとる度、この厳しさ身に染みる。
人生は歳をとるほど深く、楽しく、本当の美しさを教えてくれる。