デザインとは一般的に強烈な自意識の体現であると考えます。
無から有を生み出し、出した瞬間から見た全ての人からの批評を浴びねばなりません。
人はいろいろで感性の合う人もいれば合わない人もいる。或いは全く理解し合えない人もいる。時の運もある。
全員で喜びを共有するなんて難しいでしょう。
批評は刃です。刃を受ける覚悟が必要です。情報があふれ、より多くの人が刃を持つ現代は尚厳しい。
私達の取組むのは庭です。庭的なデザインです。
私は自意識のなれのはてとして、まずは自意識を消すことを心掛けています。
自意識を消し、その場の空気と一体になれるように努力します。自然と一体になるのです。
自分自身をその場の空気と一体化させるのです。
地の声、空気の色、空気感、時間の感覚、関わる様々な素材の本当の姿、人々の本当の声。
実はこういうことはすぐにはわかりません。
時間をかけて少しづつ感じ取り、少しずつ馴染み、時には当初の計画を一から見直し、これから生まれようとする何かと共に流れていきます。
その思考と生命のリズムはせかせかと動き回る現実の我々の動きなど意に返さず、実にゆったりとしたリズムで少しづつ成長していき、ある場所までくるとふっと小さく頭をだすものです。
私は時間をねかせる事がとても大事だと思っています。まず要素と空気を自身にとりこみ自身の中で菌を培養するように勝手に成長していくのを待ちます。ギュッと集中することと、ほったらかしにすることが、菌を醸成していくにはとてもいいようです。
時間を寝かせるということは、熱くなった自我を取り除いていくことにも役立ちます。
古くなった樹皮が剥がれていくように少しづつ行き過ぎた自我を取り除いていき、本当にいいものは何なのか見極めていくことが重要です。
こうでなければならないなんてものはありません。
しかし自身の心持ちのありようでこの有形無形のサインを見逃してしまうことになるのです。
一方デザインと対をなすもの、又はデザインの原点となるもの、設計について少しお話します。
設計計画は、取り組む人間の姿勢・真剣さの現れであります。
設計計画は、確かな数字の積み重ねであるべきです。
庭における人の動き・素材の原理に忠実なセオリーと知識、データの積み重ねであるべきです。これらが骨身に浸透せずしてデザインにおける思考の流れはありません。
まずは基本です。どこまで進んでもいつでも基本に立ち返り、世界の根本から勉強しなおす姿勢がとても大切です。
デザインの現場に立ちます。
要素がとても多いのです。本当にわかっているものはどれだけあるのでしょう。
複雑に絡み合う糸を感じます。人間的な成熟なくしてはとても扱えるシロモノではないでしょう。それでいてほっといても誰でもそれなりの形ができてしまう側面もあります。
無為と作為を考えます。自分が作為に満ちたとき、とてもいやらしいものに感じられ、全てにそっぽを向かれてしまいます。
なんとか、これでいいだろうと思えた時、少し心が穏やかになれた時、誰かが少し微笑んでくれた時、実はうまく説明できない、禅問答のような時間なのです。
本当にいいデザインはフレクシブルなもの、流れていく、思考のなかで流れていく。
最初に描いた絵が最終形であるはずがない。イメージの中での最終形であるはずですがイメージが現実に変わる時、心血注いだデザインだからこそ、さらなる成長をしていくものです。
私はデザイナーとして汗をかきたいと思います。
私達の分身が生れ落ちる瞬間をこの目で確かめたいと思っています。
全く予期せぬ誕生を見た時、生きていて良かったなと心から思います。
未来のものつくりはきっと機械がやるのでしょう。
ミリ単位いやもっと細かく精緻なデザイン、t単位・街・国・地球・マクロなデザイン、きっと彼らはやり遂げてしまう日がくるでしょう。
私たちは人間です。
語り合うことです。真剣に語り合うことです。
生まれ来る庭を前に胸を開き、真摯な姿勢で語り合うことです。
そして、人の命のリズムに寄り添うもの、変化していく心のデザインは永遠に人のものである。
私はそう確信しています。